銘菓から文豪の足跡を辿る

こんにちは。今日はとりでの話題です。

 

 

よかっぺ取手、というお菓子をいただきました。
取手市本郷の風月堂さんで作っているお菓子です。
https://peraichi.com/landing_pages/view/wagashifugetsudou

 

 

こちらの右上に「安吾 ふれあいの里」と書かれています。
ちょっと気になってWikipediaを眺めてみたところ
小説家の坂口安吾が取手に居た事があり、そこから名前がついたようです。
ちょっと興味を持って坂口安吾と取手の関係について調べてみました


坂口安吾は1939年(昭和14年)5月に東京から取手に移り住みます。
新しい作品を書くための構想を練るためだったようです。

当時の状況は坂口安吾の『釣り師の心境』という作品に書かれています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43165_34361.html

私は取手という町に一年あまり住んでいた。利根川べりの小さい町で、本屋のオヤジはこゝをフナ釣りのメッカみたいなことを云っていたが、これを割引して考えても、魚というものは、よほど釣れない仕掛けになっているようである。
 この町へは、下村千秋と上泉秀信と本屋のオヤジがお揃いで、よく釣りにきた。彼らは伊勢甚という旅館へ旅装をといて、そこのせがれの案内で、釣れそうなところへ出掛けるのである。私がこの町へ住むことになったのも、その関係で、あそこなら閑静だから仕事ができるだろうと本屋のオヤジがムリにすゝめたのであった。
 私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、
「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」
 と云った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三ヶ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。私が、この町を去って後、この団体のランチキ騒ぎの最中に、二階がぬけて墜落し、何人かの即死者がでたような出来事があった。ずいぶん頑堅らしい田舎づくりの建物であったが、よくまア二階がぬけ落ちたものだ、と私は不思議な思いであった。建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なことゝなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。
 翌日オカミサンは、さる病院を世話してくれた。ここは当主が死んで、もう病院も休業して久しい大建築物であった。

 

 

 

当初旅館に住むはずだったのが、病院の離れを案内されてそこに住んでいたようです。

 

坂口安吾は作品を書いていたのかというとそうでもなく
『日本文化私観』という作品の中で
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html

三年前に取手という町に住んでいた。利根川に沿うた小さな町で、トンカツ屋とソバ屋の外に食堂がなく、僕は毎日トンカツを食い、半年目には遂に全くうんざりしたが、僕は大概一ヶ月に二回ずつ東京へでて、酔っ払って帰る習慣であった。尤も、町にも酒屋はある。然し、オデン屋というようなものはなく、普通の酒屋で、かまちへ腰かけてコップ酒をのむのである。これを「トンパチ」と言い、「当八」の意だそうである。即ち一升がコップ八杯にしか当らぬ。つまり、一合以上なみなみとあり、盛りがいいという意味なのである。村の百姓達は「トンパチやんべいか」と言う。勿論僕は愛用したが、一杯十五銭だったり、十七銭だったり、日によってその時の仕入れ値段で区々まちまちだったが、東京から来る友達は顔をしかめて飲んでいる。
 

とこのように書いています。
環境なのか時期的なものだったのか、あまり作品は捗らなかったようです。翌年1月には小田原へ引っ越してしまいます。

 

 

という事は坂口安吾は取手移り、9ヶ月ほど住んでいたようです。

 


 

2つの作品の中には旅館、病院、酒屋、トンカツ屋、ソバ屋、が出てきます。
これが現在の取手市どの辺なのか、何か手掛かりが無いかと図書館で調べてみました。

 

 

 

最初に泊まった旅館は「伊勢甚」という屋号だったそうです。
現存はしてませんが、場所としては当院取手治療室のすぐそば、
長禅寺の参道脇にあったそうです。

 

 

写真としてはこちらの左側にあるマンションの場所です。
正面奥の階段が長禅寺へと続く参道になります。

 

旅館のあとで移り住んだ病院ですが、こちらは旧取手協同病院の事と思われます。
現在は国道6号線沿いに”JAとりで総合医療センター”という名称で存在していますが
1976年に現在の位置に移転するまでは、取手駅東口に建物がありました。

当時の地図を見るとちょうどこの辺りです。
八百屋の千代屋さんに聞いたところ、隣に病院があったそうです。
その後取手駅東口の再開発の際、道の場所は少し変わったそうですがだいたいこの辺との事。

また、坂口安吾がお酒を呑んでいた酒屋というのが、
大師通りにある海老屋酒店だったそうです。こちらは現存しております。

病院の離れですが1970年当時の地図を確認したところ
海老屋酒店の斜め向かい付近に協同病院の寮があったので、そこではないかと推測されます。
本当に目と鼻の先ですね。

 

あとはトンカツ屋とソバ屋、の場所がわかるといいのですが。。
なかなか古い地図というのが図書館になく、大正6年(1917年)の地図があっただけでした。
駅前の古い地図ですが和、洋、お料理 新六亭という広告が確認出来ました。

現在は日本語学校の看板がついていますが、こちらが新六亭があった場所になります。

 

大師通り入り口の伊勢利さんは1782年創業。こちらも相当古いお店です。

周囲に食堂がなく、という事ですので正しい場所はわからないのですが
この辺が有力なのかな…?という感じがしております。

まとめると

取手駅東口の長禅寺周辺で生活をされていたようです。

さて、ところでなんですが…
当院の入っている建物、伊勢甚ビルという名前なのです。

これは何か関係があるのか?現在こちらの建物のオーナーである
大家さんに聞いてみました。

 

こちらの建物は、先程出てきた伊勢甚旅館を持っていた方が建てたもので
現在の大家さんが引き継いだものだそうです。

現在伊勢甚の名前が残る建物はここしかないそうです。
つまり!!なんと!!当院は坂口安吾に何となく関係ががある!!という事になります。

 

いやいや、自分で何となく調べてみてこのような事実に当たるとは。。
とてもビックリしました。何でも興味を持って調べてみるものですね。。

 

 

ちなみにお菓子の中身はこんな感じでした。

ぷるぷるもっちりの本葛入りのお菓子でした。黒蜜ときなこをかけてとても美味しかったです!